アニメコラム

【超かぐや姫】アニメ映画はドーパミンを浴びる装置になった?【スーパーマリオギャラクシー】

アニメコラム
スポンサーリンク

SNSを見ていると「ドパガキ」という言葉を見かけることがある。
これはドーパミン中毒のガキの略であり、その語呂の良さもあって
最近よく見かける印象だ。

この言葉の意味としては
現代の子供たちはショート動画などの影響もあって
集中力が落ち、短時間で得られる快楽、ドーパミン中毒になっている
というものだ。

「展開が早すぎる」「画面がうるさい」
「ネタを詰め込みすぎ」「深みより勢いで押している」
「子どもやSNS世代向けに、わかりやすい快感だけを並べている」
そういうニュアンスで使われることが多い言葉だ。

ドパガキ

個人的にはあまりこの言葉は好ましくない、
なんとなく差別的な響きや馬鹿にした表現でもあり、
同時に「自分とは違う意見」の他者に対する
レッテル貼りとして 使われていることが多い。

自分が楽しめなかったアニメ映画が大ヒットする、
そんな大ヒットしたアニメに対して「ドパガキ向け」と
やや馬鹿にした意味も含めてSNSで使われていることが多いからだ。

しかし、そんな私ですら「ドーパミン中毒」という言葉を
スーパーマリオギャラクシーの映画のレビューで使ってしまった。
嫌いな言葉なのに、そんな言葉が浮かんでしまう。

だからこそ、改めてこの言葉、そして今の映画を考えてみたい。

「単純にドーパミン中毒のガキ向けの映画だろ」
と、この言葉を単なる悪口として片付けてしまうのは、少しもったいない。

その言葉を使う前に、今のアニメ映画、
もっと言えば今の観客が映像作品に求めているものの
変化が、もしかしたらそこにはあるのかもしれない。

ショート動画

映画は、2時間かけてじっくり物語に没入するものだ。
今もそれは変わらないと私は思っている。
それは映画館という、
言い換えれば2時間ほど席に縛り付けることができるからこそ
できるストーリー構成でもある。

だが、今の観客は日常的に、まったく違うリズムのコンテンツを浴びている。
YouTube、TikTok、X、ショート動画、配信、ゲーム、サブスク、切り抜き。
数十秒ごとに面白いものが流れていて、つまらなければすぐ次に行ける。
見たいものだけを選べる。退屈な時間を我慢しなくてもいい。

とんでもないスピードで流れる流しそうめんのようなものだ。
そういう環境に慣れた観客に対して、映画だけが昔と同じように、
「最初の30分は静かに積み上げるので、最後まで信じてついてきてください」
と言っても、昔ほど通用しにくくなっているのかもしれない。

もちろん、それが悪いという話ではない。
ただ、観客が心地よいと感じるテンポが変わっている以上、
映画に求められる快感の速度も変わってきているのだろう。

パリに咲くエトワール

3月に公開されたパリに咲くエトワールという 作品は
いい意味で「古典的」な作品だった。
20世紀初頭のパリに訪れる二人の少女、
そんな二人の少女がパリでの生活の中で
挫折と小さな成功を積み重ねながら大きな成功へと結びつくラストにつながる。

これはアニメ映画らしいストーリー構成だ。
静かな導入があり、キャラクターの関係性が少しずつ積み上がり、
終盤で感情が花開く。
まさに「映画」としてきちんと作られている作品だった。

しかし、今の時代においては、
良い意味でも悪い意味でも「古典的」になってしまった。

「パリに咲くエトワール」は「展開が早すぎる」こともなく、
「画面がうるさい」こともなく、「ネタを詰め込みすぎ」てるわけでもなく、
「深みより勢いで押している」わけでもない。

じっくりと積み重ねた面白さがある作品だ。
しかし、興行収入はそこまで伸びていない。
SNSでは、私含め高い評価をしている人がいるものの、
多くの人が映画館に足を運んで大ヒットしているというわけではない。

予告編やPVを見ても「ドーパミン」が出てこない。

つまり、「パリに咲くエトワール」は観客に「待つこと」を求める映画だった。
すぐに爆発する快感ではなく、
小さな挫折や成長を積み重ねた先にある感動を味わう作品だった。

作品の質が低いわけではない。
むしろ逆だ。
ただ、良い映画であることと、
今の観客を映画館に引っ張る力があることは、
必ずしも同じではなくなっているのかもしれない。

快楽設計

今のアニメ映画には、ある種の快感設計が求められている。

例えば数分おきにギャグシーンがあったり、
激しいアクションや派手な映像があったり、
そうかと思えば音楽が流れたり、バトルシーンがあったり。

観客が退屈する前に、次の刺激を置いていく。
いわゆる「溜め」というのがどんどんと短くなっている。
緩急という言葉があるが、その「ゆるみ」の部分が長ければ長いほど、
観客にとっては飽きにもつながりやすい。

もちろん、その「ゆるみ」は本来、のちの展開へのフリでもあった。
何も起きない時間があるからこそ、次に起きる出来事が大きく響く。
静かな時間があるからこそ、感情の爆発に意味が生まれる。

しかし、今は違う。
ゆるみを許さず、フリの前に結果を見せてほしい。
そんな空気があるようにも感じる。

これを雑に言えば「ドーパミン中毒向け」なのかもしれない。
だが、少し言い方を変えれば、
これはショート動画時代に最適化されたアニメ映画の
新しい形なのかもしれない。

ドーパミン型アニメ映画とは何か

では、そもそもドーパミン中毒向けの映画とはなんだろうか。
一言で言えば、物語をじっくり積み上げることよりも、
観客を退屈させないことを最優先にした映画だ。

もちろん、物語がないわけではない。
キャラクターもいるし、テーマもある。一応、起承転結もある。
しかし、そこを重視しているというより、
観客の反応を途切れさせないことを優先している。

こういう映画は、観客に考える時間をあまり与えない。
場面が変わる。キャラが叫ぶ。音楽が鳴る。
カメラが動く。ギャグが入る。バトルが始まる。
懐かしいネタが出る。次の見せ場へ進む。

とにかく止まらない。
その止まらない映像を見る中で観客の頭の中はフル回転だ。
観客は、物語を深く解釈する前に反応が先にくる。
理屈よりも感情が先に反応してしまう感じだ。
そういう小さな快感が、映画全体に敷き詰められている。

この感覚は、切り抜き動画にも近い。
例えばVTuberなどの長い生放送の中で、
黙ってる時間や面白みのない余白を削り、
面白いところだけを見せる。
そういう切り抜きの感覚を、映画にも落とし込んでいるように見える。

「余白」や「積み重ね」というものを削ることで
連続的な面白みだけをつなげている、ショート動画を
次々と見ているような感覚が生まれる。

私たちは普段から、退屈に耐えなくなっている。
電車に乗っている間に多くの人はスマホを見ている、
そんなスマホを通してみているYouTubeなどでは
動画のつまらない部分は倍速で飛ばしたり、サムネやタイトルで
興味が湧かなければ、そもそも再生しない。

1分見て面白くなければ閉じる。
そんな時代に、映画が「退屈させないこと」を重視するのは、
むしろ自然な流れなのかもしれない。

しかし、それがイコール「浅い」のか「駄作」なのかはまた別だ。

スーパーマリオブラザーズは知っている快感を浴びる映画

ドーパミン映画としてわかりやすいのがマリオ映画だ。
2023年に第一弾が公開され、2026年に第二弾が公開されている。
私は第一弾は絶賛したが、一方で第二弾は酷評している。
マリオ映画としての方向性としては変わっていないにもかかわらずだ。

第一弾のマリオ映画は、決して複雑な物語で勝負した作品ではない。
むしろストーリーだけを取り出せば、かなりシンプルだ。

兄弟が異世界に迷い込む、ピーチたちとの出会いがあり、
クッパという敵と戦い、成長し、世界を救う。
大筋だけ見れば、王道中の王道だ。
ひねった構成でもなければ、ものすごく
難しいテーマを扱っているわけでもない。

だが、マリオ映画はそれでいいのだろう。
なぜなら、マリオ映画の本質は、物語の新しさではなく、
観客の中にすでにあるマリオの記憶を刺激することにあるからだ。

土管。キノコ。ブロック。
スター。カート。ピーチ城。クッパ。ルイージ。
ドンキーコング。レインボーロード。
そういったものが映画の中で描写されるだけで刺激が生まれ、
そこに聞いた瞬間に体が反応する音楽でテンションはアゲアゲだ。

「あ、これ知ってる」「この音だ」
「このステージだ」「ここでそのネタ入れるのか」
「子どものころ遊んだやつだ」

マリオ映画の快感は、ストーリーを理解した結果として生まれるものではない。
もっと反射的なものだ。
映画を見ながら、観客はずっと自分の記憶をくすぐられている。
それも、世界中の人が共有している巨大な記憶だ。

だからマリオ映画は強かった。
第一弾はそこにきちんとストーリーがあった。
ただ観客のドーパミンを放出させるだけでなく、
その放出したドーパミンの落としどころがあった。

兄弟愛という軸があり、マリオとルイージの関係があり、
最後にその感情がきちんと着地する。
だからこそ、派手なアトラクションでありながら、
映画としての満足感もあったのだと思う。

超かぐや姫

スタンスとしては超かぐや姫もその形に近い。
マリオ映画がマリオという多くの人が共有している記憶そのものを
刺激するものだったことに対し、「超かぐや姫」はネット文化だ。

VTuber、eスポーツ、VRChat、音楽ライブ、推し文化
といった現代的なネット要素、そして「ボカロ」という曲の要素、
さらにそこに古典でもある「竹取物語」を足している。
古典である『竹取物語』をベースにしながら、
そこに現代のネットカルチャーを大胆に接続している作品だ。

これだけ聞くと、かなり情報量が多い。
むしろ、普通に考えれば混ぜすぎにも見える。
だが、混ぜすぎているからこそ成り立っている部分もある。

本来はもっと掘り下げる部分、描く部分、
物語における「余白」をかなり削り、
ご都合主義ともいえる展開が怒涛の速度で巻き起こる。

その怒涛の展開の数々が観客のドーパミンを吹き上がらせ、
それと同時に竹取物語を逆手に取る終盤の展開を盛り込むことで、
知っている展開から知らない展開への変換が快楽を生む。

そしてラストのハッピーエンドが
ドーパミンの落としどころになっている。

つまり「超かぐや姫」は、ただ派手なだけの映画ではない。
怒涛の快感を浴びせながら、最後にきちんと着地する場所を用意している。
そこが、このタイプの映画においてかなり重要なのだと思う。

アトラクション化する映画館

観客側のスタンス、ショート動画の流行による
娯楽の楽しみ方の変化というのもあるかもしれないが、
同時に「映画」というもの自体が変わってきているのかもしれない。

今や映画は通常料金なら2000円越えだ。
この2000円を出す「価値」があるか否かが問われている。
それを私は「映画体験」と呼称しレビューでも多用している。

例えば「鬼滅の刃」の映画は映画館だからこその、
あの映像美を120%楽しむことができる作品だ。
家のテレビやスマホでは映画館のような臨場感を味わうことはできない。
鬼滅の刃の映像美を100%堪能するためには映画館に行かないといけない。
映画体験がきちんとそこにはある。

2000円払う価値がそこにはある、その映画体験を
多くの人が求めだしているようなそんな感覚を最近は強く感じる。
それは制作側も同じであり、映画体験をどこか
「アトラクション」的なものに仕上げている作品が増えてきた。

ただ座って物語を見るのではない。
音を浴びる。映像に飲み込まれる。
知っている世界に入り込む。
映画館という場所でしか味わえない刺激を受け取る。

映画館そのものが、物語を楽しむ場所から、
巨大なアトラクションを体験する場所へと
近づいているのかもしれない。

これは劣化なのか、進化なのか

こうした流れはアニメ映画の劣化なのだろうか。
はたまた進化なのだろうか、非常に判断に困るところだ。

例えばマリオ映画1つにとっても1作目は
アトラクション的な部分と映画としてのストーリー部分がうまく作用して、
「映画体験」をできる映画になっているような印象を受ける。

しかし、その一方で2作目はアトラクション的な部分を強くしており、
通常上映で見るよりも4DXなどで見るほうが圧倒的に楽しめるだろう。
だが、その先にあるのはなんだろうか?

「USJ」だ。
2作目の映画は楽しい部分もあるのだが見ていて疲れる作品だった。
実際にUSJのアトラクションに乗っているわけではないが、
あのアトラクションの最中に見る映像を連続で見せられているような感覚もあり、
乗っていないのにジェットコースターにでも乗った気分と疲労感がある。

それを進化というのか劣化というのか、
私にはいまいち判断しかねるところだ。

ただ、確実に言えるのは、
今の映画は「物語を見せる」だけではなくなっているということだ。

映画館で見る意味。
大きなスクリーンで見る意味。
わざわざお金を払って体験する意味。
そこを強く意識した結果、映画はどんどんアトラクションに近づいている。

余白

こういった映画は、「超かぐや姫」もそうだが賛否両論を生みやすい。
正直、そう感じる人がいるのもわかる。
全部説明してくる。全部派手にしてくる。
それは裏を返せば、観客を信じていないようにも見える。

何でもかんでもテンポよくする。
何でもかんでも音楽で盛り上げる。
何でもかんでもSNSで話題になりそうな場面を作る。
そうなると、映画から待つ時間が消えていく。

言いかたは悪いが口をあければ
濃くてうまいジャンキーなスナックが飛び込んでくるようなものだ。
非常に「受動的」な作品の楽しみ方を強いられる。
口を閉ざした瞬間に零れ落ちるものがあまりにも多い。

本来、感情には沈黙が必要なこともある。
キャラクターの痛みを感じるには、何も起きない時間が必要なこともある。
余白があるから、観客が自分の感情を入れられることもある。

要はバランスの問題だ、そういったシーンばかりを詰め込むのは
今時の作品の作り方、戦略として求められる部分はあるのだろう。
だが、同時にそれだけでは映画ではなくアトラクションになってしまう。

ドーパミンの落としどころ、
ドーパミンとは真逆の、安心や充足に近い感覚、
あえて言えば「セロトニン」的な瞬間があれば、
映画としての起承転結につながる。

盛り上がって盛り上がって盛り上がって、
その盛り上がりが綺麗にまとまり落ち着く。
いわゆる映画のストーリーの王道とは逆だが、
「スーパーマリオブラザーズ」や「超かぐや姫」はそれができていた。

今のアニメ映画は物語より体験を売っている

今の流行の映画がドーパミン中毒の人向けに
作られているとは 感じやすいのだが、
観客の集中力がなくなったというより、
観客の周囲にある誘惑が強くなりすぎたことが最大の要因だろう。

映画を見ている間でもスマホを見るなんて人もいる。
映画を自分の意志で見に来たはずなのに、いつでも見れる
スマホの誘惑にすら負けてしまっている人が多い。
映画は、多くのものに負けないだけの快感を用意しなければならなくなった。

昔のように物語とキャラクターとテーマがしっかりとあり、
そしてアニメーションだからこそできる映像美で見せるだけでは
今は物足りないのかもしれない。

大きなスクリーンで見る理由。公開初日に見る理由。
SNSで語る理由。友達と一緒に行く理由。もう一度見る理由。
「映画館に行く理由。」を求めている、
それは裏を返せば映画館で見る価値のある作品であり、
「映画体験」そのものだ。

マリオ映画は、マリオの世界に入る体験だ。
超かぐや姫!は、古典とネットカルチャーと音楽をまとめて浴びる体験だ。
どれも単なる物語鑑賞では終わらない、
「映画」はもはや見るものではなく「浴びる」ものになっている。

ドーパミン型の快感設計とアニメは相性がいい。
現実ではありえない速度で画面を動かし、
現実ではありえない色で世界を染め、現実ではありえない感情の爆発を描ける。
それがアニメの強みであり、今のこの流れはアニメにとっては追い風だ。

ただし、危うさもある。それはスピード感だ。
快感だけを追いすぎると、作品は消費されるスピードも速くなる。
見ている最中は楽しい。でも、数日後には何も残らない。
SNSで盛り上がって、すぐ次の話題に流れていく。
実際、スーパーマリオギャラクシーはそれに近い感じがある。

本当に強い作品は、快感だけでなく、その奥に何かを残している。
スーパーマリオブラザーズはしっかりと「兄弟愛」を感じさせてくれた、
超かぐや姫は「超ド級の百合」を感じさせてくれた。

同時期に公開された「パリに咲くエトワール」は
素晴らしい作品だった、多くの熱狂的なファンも生んでいる。
映像的な快楽は薄くとも「何か」があったからこそ
語られる名作になっている。

しかし、深い物語だけでは届かない。
美しい映像だけでも足りないのが今だ。
そこに、テンポ、音楽、懐かしさ、推し、SNS性、
そして何より退屈させないことが求められているのかもしれない。

もしかすると、これからのアニメ映画は、
ますますそうなっていくのかもしれない。
そうなれば、映画は鑑賞料金ではなく、
いつの日か入浴料金になっている…かもしれない。