ロボット

刹那的大矛盾ガンダム「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」レビュー

機動戦士Gundam GQuuuuuuX ロボット
画像引用元:©創通・サンライズ
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評価 ★★★★☆(60点) 全12話

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』特報

あらすじ 宇宙に浮かぶスペース・コロニーで平穏に暮らしていた女子高生アマテ・ユズリハは、少女ニャアンと出会ったことで、モビルスーツ決闘競技《クランバトル》に巻き込まれる。 引用- Wikipedia

刹那的大矛盾ガンダム

本作品はTVアニメオリジナル作品であり、
機動戦士ガンダムシリーズの最新作。
監督は鶴巻和哉、制作はサンライズ、スタジオカラー。

1話冒頭から見せてくれる。
本作品を手掛けているのはサンライズであり、エヴァのスタジオカラーだ。
そんなスタジオカラーらしい「シーン」を冒頭から見せてくれる。

宇宙空間の中でのMSの殴り合い、余計なBGMは一切なく、
MSが殴り合う音だけが響き渡る。本来、空気のない宇宙で音がなることはない。
この時点で「SF」であり「ファンタジー」なのだが、
嘘なのにリアルさを感じる、それがまさにアニメにおけるSFだ。

ジオンが勝利した1年戦争、
その果てにジャンク屋にまでモビルスーツが流れている。
武器が使えないようにはしてあるものの、
モビルスーツは民間人が自由に扱っている。

そんなファーストガンダムのifな世界で
「シャリアブル」は赤いガンダムを追っている。
3倍どころか30倍くらいの速度で動き回るその姿は
あのシャアを彷彿とさせる姿だ。

しかし、本作品の主人公は彼でも天パでもない。
真っ赤な神の普通の女の子だ。

ガール・ミーツ・ガール

少女が出会ったのは「難民」の女の子だ。
どこか自分というものに、コロニー生れな自分を「嘘」のように感じている。
本物の重力も、本物の空も知らない。そんな自分はどこか空虚で、なにもない。
だが、なにもない、特別でもない自分に特別な何かが起こる。

不法移民の女の子の落とし物、
モビルスーツの戦闘システムを拾った彼女の「物語」が動き出す。
1話から非常にハイテンポで詰め込まれている、
いわゆる「行間」のようなものもなく、余計な間もない。
詰め込むだけ詰め込まれたセリフと展開は目まぐるしく場面転換する。

コロニーにいる主人公であるマチュが映ったかと思えば、
コロニーの外の宇宙にいるシャリアブルが映り、
赤いガンダムを捕まえるためにジークアクスを発信させる、
そうかと思えばコロニーではマチュと難民の少女ニャアンが出会う。

本当に目まぐるしいまでの展開だ。
本来ならもっと間がある、本来ならもっとゆっくり描く。
だが、そうはしない。圧縮に圧縮を重ね、極限にまで詰め込まれている。
まるで星を飲み込むブラックホールのごとく、
とんでもない質量がこの作品には詰め込まれている。

普通の女の子だったマチュ、だが、普通であることを彼女は嫌悪している。
「特別な何かになりたい」、それは古今東西、若者が抱えている悩みだ。
だが成長する中で自分が特別でないことに気づき諦める。
しかし、マチュは出会ってしまう。ニャアンに、赤いガンダムに、ジークアクスに。

巨大なモビルスーツを前に普通の女の子なら「恐怖」を感じる。
前の前でモビルスーツが街を破壊してる光景をみても、彼女は逃げず、怯えない。
眼の前にある「モビルスーツ」に「戦闘システム」を片手に彼女な乗り込む。
特別ななにかになれる、そんなチャンスを彼女は逃さない。

あっちのほうが強そう、そんな思いで彼女はジークアクスに乗り込む。
誰かの手のひらのような操縦桿をにぎり、掴む。
彼女は自らの手で「特別な自分」になろうとしている。

「立っちゃった…」

呆然しながらも、現実を受け止め、ひたすら前に突き進む。
これはごく普通の少女が特別なものに憧れる話だ。
彼女は特別だ、「ニュータイプ」としての力に目覚め、
理論ではなく感覚で理解する。

1話の戦闘のあと、自分がやったことなのにどこか実感しきれない。
それは彼女自身が自分を特別なものと自覚しきれていないからこそだ。

if

そんな1話から一変、2話では過去が描かれる。
「シャア・アズナブル」と呼ばれた男、
そんな男が敵である連邦が開発した白いモビルスーツを盗み出す。
これはファーストガンダムとは違う展開だ。

本来、機動戦士ガンダムという作品では白いガンダムに
「アムロ」という主人公が乗ることで始まる。
しかし、この作品ではもし、アムロがガンダムに乗らなかったら、
それどころかシャア・アズナブルが乗っていたらという
ifのストーリーを展開している。

ファーストガンダムから約50年の月日が立ち、
もはや「古典」の領域だ。
だからこそ、こういったifを公式がやることが許される。

コナン・ドイルがシャーロック・ホームズを生み出し、
そのあとに多くの様々なシャーロック・ホームズが生まれたように、
古典とも言える作品を独自の解釈や世界観のもと
再構築することは創作の世界では珍しくはない。
この作品はそんな独自の解釈による再構築を行っている。

反則とも言える世界観ではあるものの、
もしシャアがガンダムに乗っていたらというifに心が踊らないわけがない。
圧倒的な作画で描かれる戦闘シーンも圧巻だ。
シャアが乗るガンダムによる戦闘シーン、ただただ高速に動かすのではなく、
「重さ」をどっしりと感じさせることで迫力を生んでいる。

ビームライフル、バズーカ、遠距離攻撃で打ち合い、
バルカンで牽制し、ときに武器すら投げ、一気に接近し、決着をつける。
息を呑むような戦闘シーンに思わずニヤニヤしてしまう。

ニュータイプ

ニュータイプというのはファーストガンダムにおける概念の1つだ。
宇宙へと進出した人類が宇宙空間という新たな場所で
進化した結果ともいうべきものだ。
ニュータイプの超人的な直感力、洞察力、観察力は
戦場において驚異的とも言える。

シャアは「シャリアブル」という、もうひとりのニュータイプに出会い、
相棒のような存在として戦場を駆け抜ける。
だが、戦争の最中でニュータイプの能力が暴走し、
ゼクノヴァと呼ばれる大爆発事故を巻き起こす。

この作品ではニュータイプというものを新たに解釈しようとしている。
初めて載ったモビルスーツを楽々と動かしてしまうマチュ、
彼女もまたニュータイプだ。
ニュータイプとして目覚めてつながり、見えた光景。

ニュータイプにしか見えない光景「キラキラ」に魅了される。
そんな彼女が出会うのもニュータイプである「シュウジ」だ。
シュウジとともにガンダム同士の戦い、
クランバトルにマチュは参加することになる。

どんどんとマチュは「普通」ではなくなっていく。
自らそこに彼女は足を踏み入れている。
彼女は流されているのではない、常に自ら「選択」している。
ジークアクスにのることも、クランバトルに出ることも。
彼女が選んだ道だ。

クランバトル

クランバトルは2対2のMSによる裏バトルだ。
相手の頭部を破壊すれば勝ちという単純なものだ。
この設定はどこか「Gガンダム」を彷彿とさせる。

宇宙区間での重力を感じさせない戦闘シーンは流石だ。
この作品で出てきた「マヴ戦術」という2対2だからこその
MSでの戦い方をこれでもかと見せてくれる。
CGを駆使しながら立体的に自由に描かれるMS戦がたまらない。

そんなクランバトルに身を落とす理由は様々だ。
金のために、名誉のために、戦いのために。
普通ではない世界に身を落としたマチュは
普通ではない人達に囲まれ、自分が特別なものになっていくことを感じていく。

言葉にしなくてもわかってしまう。それがニュータイプだ。
多くのニュータイプや、ニュータイプの素質を持つものに囲まれ、
戦いの中で言葉ではない何かを交わしていく。

特に「魔女」との戦いは印象的だ。
機体の限界まで引き伸ばし、相手にワイヤーを指しながら翻弄する。
まともな芸当ではない。重力がないからこその、
ニュータイプだからこその戦いだ。

そんな中でマチュが叫ぶ

「まってよシュウジ」

自分も特別になりたい、もう普通に戻りたくない。
1度、特別な自分を味わってしまったからこそ、
モビルスーツのパイロットになってしまったからこそ、
彼女は特別なものに終着する。
戦場で「死」を味わっても、マチュはもう止まらない。

ニュータイプになり、向こう側を知り、多くのニュータイプを知ったからこそ、
シュウジという特別な存在のそばに居続けようとする。自分が特別であるために。
シュウジといっしょに地球に行く、それが彼女の目的になる。

ニャアン

シュウジという男は不思議だ。掴みどころがなく過去も語らない。
しかし、妖艶な見た目とMSのパイロットとしての技術、
ニュータイプだからこそ、マチュとニャアンは魅了されてしまう。
マチュは特別なシュウジのそばにいるために、
ニャアンはマチュやシュウジのそばにいるためにMSに乗る。

中盤になるとニャアンもジークアクスに乗り、ニュータイプに覚醒する。
初めて載ったMSでボコボコにされながら、
自分もシュウジとマチュと「同じ」であろうとする。
そんな彼女はシュウジとマチュと同じ景色を見ることになる。

だが、それはマチュにとっては衝撃だ。
自分だけが特別だと思ってたのに、自分だけが同世代の子とは違う、
特別なシュウジと同じ特別な景色を見れる存在だと思ってたのに、
ニャアンも同じ特別になってしまうことで、
自らの特別さの希少性が薄れてしまう。

「シュウジとのキラキラは私だけのものなのに!」

若さゆえの衝動、若さゆえの悩み、
もがき苦しみ、マチュは自らの存在を証明しようとする。

シュウジと同じ景色をみたことでニャアンも
彼との距離を縮めている。難民という孤独な少女がえた初めての場所、
彼女もまた今の場所に固執している。
あくまで彼女は今の場所に固執し、マチュはシュウジとの特別な関係の
自分に固執している。

そんな物語がとてつもない速度で物語が展開していく。
昨今流行りの倍速再生でみていてはついていけないだろう。
見る側が行間を読み解き、画面の端から端まで描かれている情報を
きちんと受取り、噛み砕かなければならない。
しかも、ファーストガンダムをみていることが前提だ。

でなければ1話からでてくるシャリアブルやシャアという存在が
どういう存在なのかというものを把握しきれずついていけない。
ファーストガンダムとはifの世界という土台も理解しきれない。

逃げ場

中盤になるとマチュの周囲の大人が裏切ってしまう。
ジオンのガンダムであるジークアクスと、ジオンがおってる赤いガンダム。
両方とも危険な存在だ、クランバトルという裏のバトルに関わっている大人でさえ、
関わり続けるのは危険だ。だからこそ手放そうとする。

マチュはそんな大人たちの企みを知ってしまう。
シュウジを、赤いガンダムを、ジークアクスを、自分の居場所を
守るためにはどうすればいいのか。
中盤辺りになると物語のスピード感もより、ましていく。

ジオンの中での政治抗争、権力争い。
マチュとは関係ないところで大人たちは身勝手に争っている。
中盤になると「サイコガンダム」まででてくる。
ファーストガンダムだけでなくZガンダムの知識まで必要だ。

本来、この中盤、7話くらいまでの内容で1クール描いてもおかしくない。
だが本来は1クールの内容をわずか7話しか使わずに描いている印象だ。
常に倍速なストーリー構成だ。
特にサイコガンダムのパイロットなどキャラとしての魅力が凄まじいのに、
ほぼ掘り下げずあっさりとシャリアブルにやられる。

エグすぎるほどの戦闘シーンがあるからこそ、
「ノリ」でストーリーを受け止めることができるものの、
もっとじっくりと描いてほしいという部分まで、
この作品はあっさりとやってしまう。

序盤の魔女にしろ、中盤のサイコガンダムのパイロットにしろ、
2話ないし1話限りのキャラで終わってしまうのはあまりにももったいない。
マチュやニャアン、そしてシュウジの3人の関係性も
本来はありそうな「3人の日常」がほとんどカットされている。

その「余白」を想像すること自体は楽しいものの、
ぎりぎりの情報量のみでストーリーを描いている印象だ。
特に終盤に差し掛かるとあまりの展開の速さについていきづらくなる。
理解はできるが、噛み砕くより前に先に話が展開していく。

ニャアンはキシリアと出会い、あっさとキシリアを様呼びでしたい、
マチュもシャリアブルをヒゲマンと読んでいる。
この間に何かがあったことはわかる、だが、その何かは描かれない。
描かれないことが不満というよりは、描かれないことに
もったいなさを感じてしまう。

4クールとは言わない、せめて2クールあれば
もっとキャラクターたちの物語が描かれたはずだ。

エヴァ

終盤になるとややエヴァみがましていく。
スタジオカラーが手掛け、新世紀エヴァンゲリオンなどで
ロボットデザインを手掛けた山下いくとさんが関わってるからこそなのだが、
中盤のサイコガンダムや終盤にでてくるニャアンの機体である
「ジフレド」などカラーリングもエヴァっぽさがものすごい。

サイコミュの影響もあるが、ガンダムに載っていなくとも
ジフレドが勝手に動く。エヴァを想像しないほうが無理だ。
「シャロンの薔薇」という存在、ゼクノヴァという要素、
いろいろな謎が明らかになっていくたびにエヴァっぽさが増していく。

わかりやすくいえば「セカイ系」だ。
今までのガンダムは戦争という多くの人がでてきて、掘り下げられ、
戦争というものが描かれていた。しかし、この作品は違う。
「マチュ」という主人公を中心としたセカイであり、
そのセカイか、好きな人を選ぶかを迫られる。

物語の終盤になれば「ララァ」がでてくる。
ニュータイプの空間で見えた景色、つながる人たち、
それは「世界線」の壁すら超える。
そうだったかもしれない自分、こうだったかもしれない自分、
いくつもの「可能性」という名の「刻」が見える。
それがこの世界におけるニュータイプがたどり着くところだ。

選択した世界

そこにたどりつているのが「ララァ」だ。
何度繰り返しても、いくつもの可能性を探っても、
彼女の愛する人は白いガンダムに殺されてしまう。
彼女は「少佐」を守るために、何度もセカイを自分を犠牲にしている。

マチュのセカイ系であり、ララァのセカイ系だ。
2つのセカイ系が重なり合っている。
自ら選択し、特別ななにかになろうとした結果、指名手配までされたマチュは
多くの人の可能性の選択の連続を知り、
シャリアブルから様々なことを教わり「自分」というものを見定めていく。

ニャアンもまたキシリアという居場所を見つける。
二人共も新しい場所を見つけ、尊敬する人から銃をもらっている。
銃は決意の証であり、選択の手段だ。
キシリアとシャリアブル、二人の大人がした選択をしり、
ニャアンとマチュは自らも選択し、大人になろうとしている。

変身!

終盤の展開の慌ただしさは凄まじい。
生きていていたシャアは目覚めたララァの影響で変身する(笑)
ニャアンはシュウジにあうために、
マチュはシュウジのために、それぞれが戦っている。

だが、そんなシュウジは彼女たちをみていない。
ララァは本来の歴史を改ざんし、影響し、
シャアが死なない世界を作り上げようとしている。
そんなララァのためにシュウジは戦っている。

誰も彼もが身勝手だ、他者のために戦っているようで己のために戦っている。
一人ひとりの信念がぶつかり合い、身勝手に世界に介入し、
自分勝手に己の正義を貫こうとしている。
シュウジはララァを守るためにも「白いガンダム」を呼び寄せる。

ループ

あり得たかもしれない可能性には「ファーストガンダム」の世界も広がっている。
あり得たかもしれない可能性にはシャアがヅダに乗った世界も存在する。
あり得たかもしれない可能性にはララァをかばいシャアが死ぬ世界が存在する。
そんなララァが絶望の末にもう1つの並行世界を作り、
何度も繰り返し、シャアがガンダムに乗る世界にたどり着いている。

ララァが目覚めれば、彼女が世界を否定すればこの世界は壊れてしまう。
シュウジにとってはそれでいい。またやり直せば良い。
彼は彼女の「使徒」だ。
何度も繰り返し、ララァのために理想の世界を作ろうとしている。

だが、それは今の世界を壊すことと同じだ。
選択した今を、選択した未来を守るためにマチュとニャアンは手を取り合う。
ニュータイプだからこそ余計な言葉はいらない、
ニュータイプだからこそ未来が見えてしまう。
見えてしまうからこそ、違う未来を選択することもできる。

マチュはシュウジという想い人に縛られるのではなく、
憧れるだけではなく「理解」することで初めて
シュウジという存在を認める選択をすることができる。
シュウジが守らなくてもいい、シュウジが縛られなくてもいい、
自らの思いを理解し、選択することで大人になっていく。

そんな物語が描かれていたのかもしれない。

総評:ガンダムであって、ガンダムではない、だがガンダムだ

全体的に見て賛否両論になるのも理解できる作品だ。
序盤はガンダムのif、シャアがガンダムに乗る世界という
ifストーリーを楽しむことができるのだが、
そんなストーリーと同時にマチュという主人公の物語も描かれ、
終盤は並行世界まで絡んでくる。

かなりややこしい作品だ。
本来は2クールくらいかけて描く内容を1クールに押し込めてるせいで、
どこかダイジェスト的ですらあり、そのカットされた部分を
見ている側が埋める作業が求められる。

それだけでなくファーストガンダムの知識も必要だ。
終盤には声だけではあるものの「アムロ」もでてくる。
この終盤の展開は非常に慌ただしく、シャアが変身したかと思えば
白いガンダムが召喚され、更に巨大化する(苦笑)
ちょっとこのあたりはやり過ぎ感は否めない。

制作側としては「ニュータイプ」というものを
新しい解釈で描きつつ、世界観を広げたかったのは分かるものの、
それがやりすぎてしまった感じはある。
もっと尺があれば多くの人に受け入れられる作品になったかもしれない、
しかし、尺がないからこそ圧縮し、人を選ぶ作品になってしまった。

ライブ感を大事にしている作品であり、それゆえのテンポ感なのは分かるが、
もっとクランバトルが見たかったと思う一方で、
逆にクランバトルがないほうがストーリーをもっと
シンプルに描けたのでは?と思う部分もある。
見ている側としても矛盾した感想が生まれる不思議な作品だ。

ガンダムだからこそできた作品である一方で、
これをガンダムといってしまっていいのか?と思うような部分もあり、
しかし同時に見ていてガンダムだなーと感じる部分もある。
もう見ている側もめちゃくちゃだ(笑)

おそらく見る人によって大きく評価も変わるだろう。
それが娯楽でもある、だからこそ今もなお様々な議論がかわされている。
何度も見れば評価も変わる作品かもしれない。

非常に評価が難しい作品だった。

個人的な感想:そうあくまで個人的

私の解釈を言うならば選択の物語だったように感じた。
マチュという普通の人生を送ってきた子供、
それは同時に選択が限られているということでもある。
進路にしたってそうだ、地球にいきたいという純粋な思いを書いても
その選択を否定され、選択すらさせてくれない。

しかし、マチュはニャアンにであいシュウジに出会ったことで
「ニュータイプ」になり、選択の幅が広がった。
多くの選択肢の中から彼女は常に自ら選んで行動している。
流されるままではなく常に主体性がある主人公だ。

自分がやりたいようにやる、それが正しいと信じ、そして後悔しない。
目の前で人がなくなっても、自分がテロリストとみなされても、
母親と連絡を取れなくなっても、彼女は「後悔」することがない。
それは自らの選択が正しいと思ってるからこそだ。

そんな少女が選択し続けた結果の物語だった。
魅力的なキャラが多いだけにもっと尺があればと思う部分は強く、
あくまでTVアニメはダイジェスト版として、
いつか映画で4部作あたりで制作されても面白いかもしれない。

シン・ジークアクスだ(笑)

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