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「海獣の子供」レビュー

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評価 ★★★★★(93点) 全111分

あらすじ ハンドボール部に所属する中学生琉花は、トラブルで夏休み早々部活禁止になってしまう引用- Wikipedia

芸術という名のジュブナイル

原作は漫画な本作品。
監督はドラえもんの劇場作品や宇宙兄弟でおなじみの渡辺歩。
製作はSTUDIO 4℃。

芦田愛菜


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

見出して感じるのは「芦田愛菜」さんの声の良さだ。
主人公を彼女が演じていることは事前に知っているのもあるが、
「芦田愛菜」さんというのがしっかりと分かる声でありながらも、
彼女の幼い頃の思い出の「語り」がピタッとハマる。

演技力と声の質。よくある知名度だけの「芸能人声優」ではなく、
子役から女優へと変わりつつある彼女の演技の実力を
「声」でしっかりと感じることができる。
声でなく「息」でも演技をしているような巧みな演技だ。

大げさにわざとらしく声をあげるのではなく、
淡々と粛々と等身大の少女を演じている。
幼い頃、主人公が「水族館」に行ったという記憶。
そんな「語り」から始まり「魚」の映像美に誘い込まれる。


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

この作品はタイトル通り「海」や「魚」が多く出てくる作品だ。
幼い頃の主人公が水族館で見た景色、海でイルカが泳ぎ、
くじらが海にせり上がり、また沈んでいく。
波の音、水の音、水の中の「空気」の音まで繊細に表現された音の表現は
思わず集中してその音を聞いてしまうほどの圧倒的な魅力がある。

癒やされる&よく眠れるBGMのような「音」の表現は心地よく、
逆に目を閉じてこの作品を楽しみたくなると思うほどだ。
水だけではない「夏」という季節の音、運動をしている音、
シーンごとの「音」の表現が本当に素晴らしく、
「耳」に直接流れ込んでくる音が「脳」に映像を映し出すような感覚になる。

キャラクターの心情そのものも「音楽」で表現している。
音楽「久石譲」という名前は伊達じゃない。
ただ巨匠を起用したわけではない、
彼の実力をこの作品でひしひしと感じることができる。

これぞ「久石譲」が作り上げる音だ。
彼の作り上げる音の表現がこの作品の「直感的」な表現を後押ししている。

思春期


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

主人公は人付き合いが苦手な不器用な女の子だ。
自分の意見を素直に言葉で言い表すことが出来ず、口より手が先に出る。
彼女自身は自分が間違ったことをシたとは思っていない、
やられたからやり返しただけだ。
だからこそ、自分が犯した行動が怒られるのが納得できず謝る事も出来ない。

運動神経は高いが部活での人間関係が上手くいかず、
幼い頃の思い出を思い返し父親が働く「水族館」に赴く。
そこで彼女は不思議な少年に出会う。

彼は自由に水槽の中を泳ぎ、魚たちの中に溶け込む。
まるで彼自身も一匹の魚のように「自由」に心地よさそうに泳ぐ姿は
「飛んでいる」ようだ。泳ぐのではなく、水の中を飛ぶ。
彼は自分自身を「海」と名乗る。

ジュゴンに育てられた少年との出会いが少女にとって
忘れられない「夏休み」の始まりになる。
美しいジュブナイルなボーイミーツガールの始まりに心が湧き上がる。

「なんで私、学校でかくれんぼしてるんだ」
社会というものに学校というものに馴染めない彼女のセリフは、
同じように「馴染めない」人の心をざわつかせる。
無意識に人を避け、無意識に社会に相容れない自分を
「かくれんぼ」と表現する彼女の言葉が突き刺さる。

そんな彼女を「見つけた」と見つけてくれるのが「海」だ。
「馴染めない」だけで人との関わりを避けたいわけではない、
自分から一歩が踏み出せず隠れてしまう彼女を見つけてくれる。
自分の存在を認めてくれる存在が現れることで彼女の世界は広がる。

「なんで私を?どうして私を?」
彼女は疑問に思う、彼が見つけてくれたのに彼が誘ってくれたのに
自己肯定感の低さゆえにそう感じる。
主人公の何気ないセリフの1つ1つが見ている側に突き刺さってくる。

「私は誰かに見つけてほしかったんだ」
彼女自身が「海」という他者との関わり合いの中で自分自身を肯定していく。
自分とはなにか、自分という人間はどんな人間でどうされたいのか。
「海」という少年との関わり合いの中で彼女は自分自身を見つめ直していく


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

私は開始して25分の映像で震えた。本当に鳥肌がたつ映像だ。
比喩ではない、本当に震えて鳥肌が立つ。
そんな映像がこの作品にはある。
主人公が「通り雨」の中を自転車で走るシーンだ。

雨の中を駆け抜けていく。
雨が水に変わり、主人公の吐息が聞こえ、水が海に変わり、
海が魚に変わり、通り雨を抜ける。
このわずか20秒ほどのシーンで圧倒される。

水の音の変化、雨の表現の変化、吐息、そして雨を抜ける瞬間。
わずか20秒ほどの間にどれほどのこだわりが詰め込まれたのかと
感じるほどに恐ろしいまでの作画枚数と「音」と「声」で見せてくれる。
ただの通り雨をここまで芸術的に表現できるのか!?と思うほどに、
あの20秒のシーンはどこを切り取っても絵画として美術館に
飾ってもおかしくないほどのシーンだ。

一瞬のシーンが本当に美しく、妥協がない。
1シーン1シーン、1コマ1コマに魂が宿ってると言ってもおかしくないほどに
この作品のこだわりは震えるほどだ。

言葉にしないでも伝わるなんて


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

主人公は「クジラの歌」に感動する。
クジラは言葉にしなくても歌で情報を意思を伝える。
人間とは違い、彼らは見たままや感じたことを歌で伝え合う。
そんなクジラを羨ましく思う。

「言葉にしなくても伝わるなんて」
誰しもが感じたことがある感覚だ。
言葉では伝わりきらないもどかしさ、言葉だからこそ生まれる勘違い、
自分自身の気持ちを他者へ伝えることの難しさを
「クジラの歌」と比較することで表現している。

海と空


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

「海」は不思議な少年だ。ジュゴンに育てられ、
肌が水中に適応してしまったがゆえに長い間外に出ることが出来ない。
魚とも交流し「人魂」という彗星も事前に見つけることができる。
人間と魚の間の不思議な感覚を持った彼。

彼には兄がおり、彼と同じ用にジュゴンに育てられた少年だ。
彼は「空」と名乗りもせず、会ったこともない主人公のことを知っている。
彼らも言葉ではない別の何かで互いの意思や思い、情報を伝えあっている。
海と違い空はやや冷たい態度で主人公に接する。

意地悪な態度で主人公に接する彼と、そんな意地悪な態度にイラだつ主人公。
そんな関係性も微笑ましく、可愛らしい。
ただ自分を肯定してくれる「海」という存在ではなく、
自分を少し否定するような「空」とい存在もいることで
主人公は自分というものと社会というもの距離感を学んでいく。

二人の少年との関わり合いの中で社会と自分の「境界線」を
見定めていくような物語だ。

生命


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

中盤で主人公は海と空とともに「海」へ行く。
普段は泳がないような脚のつかない沖で彼女は魚の群れに
巻き込まれそうにな溺れかける。あっさりと死んでしまってもおかしくない。
海の中での命の蠢きと人間という種の海でのちっぽけさ。
大自然の「力強さ」を感じさせる描写だ。

そんな中で空は探している。
彼は海と違って陸上に適応しきれておらず「光る隕石」を探し求めてる。

「俺たちはどこから来てどこへ行くのか、それを知りたい」
海に育てられた彼らは科学では解き明かせない。
科学では「観測」できない何か、この世界は観測できない何かで満たされている。
そのなにかで宇宙も構成されていて、人も構成されている。

人間も宇宙も違うようで違わない。
人間というミクロな存在が宇宙というマクロな存在と変わらないと語る
「空」は哲学的だが、その語る姿すら美しいと感じさせる。
空は人というミクロな存在を海というマクロな存在へと変質させる。

美しく描かれている、だが陸上に適応できなかった空の死だ。
その「死」さえも美しく描き、悲しさを感じさせない。
彼という個は失われても、消えゆく海の中には存在する。
「空」は主人公に口づけをし、隕石を託す。
自分という個を彼女に捧げるような彼の姿は刹那的な美しさがある。

起源


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

彼女の体の中で隕石は鼓動する。隕石は「生命」そのものだ。
それが海に落ちることで多くの生物が生まれ、また宇宙へと帰り
隕石となり、どこかの星の海に落ち生命となる。

前半から中盤も抽象的かつ分かりづらい部分も多いが、
終盤はその抽象的な部分が更に抽象的になりSF的な要素も含まれるため、
ややこしさが生まれてくる。
言葉ではなく映像で、言葉ではなく音で、伝えようとしてくる。
イルカの群れとともに泳ぎ「空」が感じたことを感じる。

前半から中盤は主人公と社会との境界線を見つめ直すシーンが多かったが、
終盤は人としての存在という「境界線」を曖昧にしている。
多くの海の生物たちと泳ぎ、生命の起源である隕石を体内に入れ、
海の中に自分を溶け込ませ、「クジラ」に飲み込まれる。
自らの身体の認知を「曖昧」にし「クジラ」の中で彼女は直接、彼らの歌を聞く。

ミクロだった彼女がマクロと一体になることで価値観や考え方が変わっていく。
その「一体感」をこの作品はアニメーションで表現する、
クジラの体内、まとわりつく音、圧倒される映像美で見てる側も
「海」との一体感を味わえる。

彼女はいつの間にか海の生物に対しても「この人」という表現を使う。
海と一体になった彼女にとって生命の種としての境界線が
曖昧になってるからその言葉だ。
海と一体になり彼女の中の隕石も目覚める。

「宇宙は1つの生命体、海のある星は子宮、隕石は精子、受精の祭り」

登場人物のキャラのセリフがこの作品のクライマックスに繋がる
生命の誕生の爆発だ、宇宙の始まりと言っても良い。

クジラ


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

隕石から解き放たれた「何か」は多くの「何か」を抱えて宇宙に飛び出す。
決して人類には科学的には解析できない「何か」、
目視することも叶わぬ「何か」が宇宙へと飛び出し星が生まれる。
ビックバンだ。
遠い星の海に隕石という生命が降り立ち、また宇宙へと解き放たれる。

隕石とつながり自分という個の境界線を曖昧にした主人公はそれが見える。
宇宙の始まり、生命の息吹、星の煌めき。
そんな中で聞こえてくるのは「母の子守歌」だ。
自分の存在を確立する1つである親という存在をもう1度思い出し、
「海」という他者を認識し、彼女はもう1度自分という存在を認識する。

あまりにも抽象的な宇宙や生命の始まりを描く終盤は
正直言ってわけがわからない(笑)
いくらでも解釈できそうな描写の応酬を圧倒的な映像美で叩き込まれる。
分かるようで分からない、理解したようで理解しきれない。

そんな「曖昧」さがこの作品で描きたかったことの本質なのでは?と
「わざと」曖昧に描くことで色々な受け取り方が
できるようにしているのかもしれない。
理解できないことの良いわけにしたくなるほど曖昧さが
この作品を何度も見たくなるような魅力につながっている。

人類では解き明かせない宇宙の始まり、生命の神秘を「曖昧」に
描くことで抽象的に表現する。
美しい生命の煌めき、死の解釈を大胆に表現し、
その映像美にただただ酔いしれることしか出来ない。

マクロからミクロへ


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

漂う海から主人公を抱き上げるのは「両親」だ。
まるでもう1度生まれたかのように彼女は両親の手に抱きかかえられる。
生命の神秘、宇宙の始まりの中で彼女がもう1度「個」を得た。
ある意味で生まれ変わったということを示唆しているのかもしれない。

海も空も隕石も居なくなった彼女はいつものように制服を着て学校に赴く。
解けた靴紐を結び直し、海を見つめ、彼女は知る。
他者を信じること、自分自身を信じることを。

彼女は他者との関わりに向き合い、映画は終わる。

総評:とんでもない作品だ


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

全体的に見て一言で言えば「とんでもない」作品だ(笑)
圧倒的な映像美は1コマ1コマ切り取っても美術館に飾れるほど美しく、
目を閉じても情景が浮かぶような音の表現は耳でこの作品を味わえる。

そんな極まりまくった表現でこの作品が描くのは「生命」と「他者との関わり」だ。
序盤から中盤まで描かれるミクロな主人公の他者との関わり合い方は
海と空との出会いと別れの中で変化し変わっていく。
自分という存在と他者という存在の境界線と関わり方を通して
自分というものを見つめ直していくストーリーだ。

終盤にはそんな主人公というミクロな存在の描写から
海や宇宙、生命の神秘といったマクロなものの描写になる。
言葉では決して説明しきれないからこその抽象的な表現の数々は
どう解釈して良いのか迷ってるうちに表現を鼓膜に直接描きこまれるような、
作品と見ている側の「境界線」すら曖昧になるような感覚になるほどだ。

あまりにも抽象的すぎる表現はどう解釈し受け止めて良いのか悩んでしまうが、
この「曖昧」な表現による個人個人の解釈こそがこの作品の狙いなのかもしれない。
この曖昧さを楽しめるかどうかでこの作品の感想は180度変わる可能性すらある。

この作品を見て「わけわからん!つまらん!」という人の気持ちも理解できる、
終盤のシーンは特に見てる側に投げている部分が大きく、
言葉で明確に説明するようなシーンは本当に少ない。
ただ、言葉では説明しないからこそ「生命」という曖昧なものを表現しており、
それがこの作品の魅力でもある。

ただただ圧倒される作品だ。海、水、空気、季節、宇宙、生命。
そういったものをアニメーションで論理的ではなく、
直感に訴えかけるような作品になっている。

私はこの作品をアニメーションの1つの到達点だと感じた。
説明やセリフを極力削って、アニメーションという絵の動きと音で表現する。
これほどまで抽象的かつ曖昧だが、圧倒的なアニメ力とも言わんばかりの
表現で見てる側に伝えようとしている作品は無い。

あまりにも儚く、あまりにも尊く、あまりにも美しい。
見る側の受け皿からこぼれ落ちるのも構わずに注がれ続けるような
そんな感覚を覚えるほど「震える」作品だった。

個人的な感想:もう1度みたい


引用元:(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

見終わった後に「ぼー」っとシてしまう作品だ(笑)
終盤の情報量が非常に多く、その情報量に対する説明も少ないため
それを噛み砕く時間が必要だが噛み砕けない。
頭の中で見た映像を思い返すのも難しい。
だからもう1度見たくなる。

何度も見続けるうちに最初に見たときとは違う解釈が生まれる。
そう感じるほどにこの作品の表現は曖昧であると同時に圧倒的だ。
1つ1つ、自分なりの解釈でその曖昧な部分を紐解いて
きちんとそれを受け入れたい。

驚くほどの名作だ。
この作品のような表現を私はもう1度違う作品で味わうことができるのだろうか?と
考えてしまうほどの表現の塊のような作品であり、
同じような作品は出てこないのではないのか?と思うほど個性的だ。

単純に「面白い」という言葉では表現できない。
他の人におすすめするか?と言われるとかなり悩む。
それほどまでにこの作品は見る人を選ぶ作品だ。

だからこそ試してほしい。そして圧倒されてほしい。
「面白い」か「面白くないか」という以前にこの作品の凄さが
目で、耳で、脳に直接的に訴えかけてくるはずだ。

「」は面白い?つまらない?

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