評価 ★★★★★(80点) 全102分
あらすじ ボニーのもとで暮らすバズやジェシー、フォーキーたちは、これまでと変わらぬ日常を送っていた。しかし、最新型の電子タブレット「リリーパッド」がやってきたことで状況は一変。 引用- Wikipedia
30年越しの答え
本作品はピクサーによるオリジナルアニメ映画作品。
監督はアンドリュー・スタントン 、制作はピクサー
ネタバレ控えめレビュー
今作は「おもちゃ」と「子供」の関係を、
現代のデジタル化や時間の経過と絡めて描いた作品だ。
トイストーリー1から約30年。
あの頃子供だった人たちが大人になった今だからこそ刺さる、
「思い出」と「変化」の物語になっている。
トイストーリーとしてはやや異質な部分もある、
特に今作はおもちゃたちと同じくらい人間である
「ボニー」の物語も描かれており、
メインキャラ以外のおもちゃの活躍も控えめだ。
そのあたりの描写のバランスに賛否両論が
生まれやすい部分はあるものの、個人的には、
トイストーリー4にあまり乗れなかった人にこそ見てほしい作品だ。
なおここからのレビューは、作品を鑑賞済みの方向けの考察レビューです。
物語終盤の展開や核心部分に関する重大なネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。
30年
トイストーリー1の公開が1995年であり、
今から約30年も前の作品だ。
そのあとのトイストーリー2が1999年であり、
トイストーリーの1と2を見ていた子供たちは大人になっている。
トイストーリーはそんな「リアルな時間経過」も物語に組み込んでいる。
ウッディやバズの持ち主である「アンディ」は1と2の時は子供であり、
そこから10年の歳月を経て「トイストーリー3」では17歳で、
まもなく大学生という年齢になっている。
この「リアルな時間経過」がトイストーリーには重要だ。
当時、トイストーリーを見ていた子供たちがアンディと同じように
年齢を重ねて「おもちゃ」で遊ばなくなる。
この世界の「おもちゃ」たちは意思を持っている。
新しいおもちゃがくれば嫉妬したり、
自分が捨てられるのではないかと怯えたりする。
おもちゃたちの「アイデンティティ」の物語が描かれており、
「トイストーリー3」はリアルに時間が経過しているからこそ
切ない物語で、多くの人の心に残ったはずだ。
トイストーリー4に関しては賛否両論だ。
アンディもいなくなり、新しい持ち主の元でおもちゃたちは
自分の生きる道を模索する。
その中でウッディは最終的に新しい道に進むことにした物語だった。
4にはそんなリアルな時間経過というものが組み込まれていなかったのも、
個人的には気になるところだった。
そこからの5だ。
あの時、子供だった私たちは立派な中年だ。
中年になった私たちに「トイストーリー」という作品は
何を見せてくれるのか。
期待と不安を半分ずつ抱えながら、私は映画館に向かった。
アナログ
映画冒頭から異様な光景が描かれている。
大量の「ハイテク版バズライトイヤー」がどこかに打ち上げられて起動し、
星を頼りにどこかを目指す光景だ(笑)
映画の序盤から中盤、この大量のバズライトイヤーの動向が
時折挟まれ、そんな異様な光景が笑いになっている。
その一方でボニーはあまり変わらない。
前作からそこまで時間が経過していないという設定なのか、
3、4年では大きな変化はなく、彼女は相変わらず
ジェシーやバズと遊んでくれている。
だが、彼女は孤独だ。
ここで効いてくるのがリアルな時間経過という名の
「時代の変化」だ。
私たちが子供のころにはなかったものが、今はあふれている。
ゲームだけではない。
今はデジタル化が進み、
小さな子供でさえ自分のスマホやタブレットを持っている時代だ。
そんな時代に逆らうようにボニーは
おもちゃで遊び続けている。
この時代には珍しいアナログだ。
だが、それは言い換えれば
「時代についていけていない」ということでもある。
子供たちは当たり前のようにYouTubeなどを見て、
それを「話題」にする。
ボニーには友達がいない。
タブレットという共通の話題がなく、
少し置いてけぼりになっている。
タブレット
そんな彼女の前にタブレットが現れる。
両親が彼女のために買い与えたタブレットに、
ボニーはあっという間に夢中だ。
日本でも「ドパガキ」なんていう言葉が流行っているが、まさにアレだ。
タブレットのゲームに夢中になり、タブレットでのつながりに没頭する。
おもちゃたちはあっという間に忘れられてしまう。
多くの子供が「おもちゃ」よりも「タブレット」に夢中になるように、
ジェシーもバズも、多くのおもちゃが放置されてしまう。
それでもジェシーは諦めない。
ボニーは普通の今時の子ではない。
彼女は想像力豊かに自分と遊んでくれる。
本当の友達を作ってあげようと必死だ。
それはジェシーの過去にも原因がある。
彼女はエミリーという少女のおもちゃだった。
だが、成長するに伴い、エミリーから忘れられた。
博物館に行くために長い間ウッディを待ち続け、
ようやくアンディという持ち主が現れ、
そんなアンディからボニーへと持ち主が変わった。
彼女は何度も持ち主が変わっている。
持ち主がいなくなるということ、
遊ばれなくなるという経験があったからこそ、ある種のトラウマがある。
自分の存在意義、アイデンティティの喪失だ。
また「ボニー」に捨てられるかもしれない。
だからこそ彼女は必死にボニーのためになろうとする。
友達
この作品は非常に難しい問題を描いている。
子供がいる人もそうでない人も、
今時の子供のデジタル化に関しては色々と思うところがあるはずだ。
ベビーカーに乗っている小さな子供でさえ、
タブレットに夢中になっていることもある。
それは果たしていいことなのだろうか。
それとも悪いことなのだろうか。
アナログなおもちゃであるジェシーたちは、当然、
ハイテクなタブレットなどを嫌っている。
多くのアナログのおもちゃが捨てられて、
子供たちは光る板に夢中になっている。
それは果たして良いことなのか悪いことなのか。
非常に難しい問題だ。
この作品は序盤から中盤まで、
デジタル、ハイテクなタブレットというものを否定的に描いている。
ボニーがタブレットを手に入れて夢中になっていく様、
そんなタブレットでできた友達にアナログなおもちゃを否定され、
ボニーはジェシーを置いてけぼりにしてしまう。
だが、タブレットによってできた友達とボニーは仲良くなることはできない。
タブレットに夢中な友達と、おもちゃやかくれんぼで遊びたいボニー。
この溝は大きい。
せっかくできたはずの友達なのに、
同じように彼女は遊ぶことができない。
「おもちゃ」や「遊び」というのは、ある種の共通言語でもある。
私たちが小学生の時にカードゲームやミニ四駆やハイパーヨーヨー、
ポケモンなどが流行って、
共通言語として友達と会話して楽しんでいたように、
デジタル・アナログ関係なく、おもちゃというものは
子供にとっての共通言語だ。
今はデジタルなおもちゃに夢中な子供が多い。
それだけの話ではあるのだが、アナログな私たちから見ると、
デジタルなおもちゃに夢中な子供にどこか否定的になってしまう。
それはジェシーたちも変わらない。
序盤から中盤はタブレットに夢中な子供を暗く描き、
どこか否定的に描いている。
だが、中盤から少し趣が変わってくる。
アナログ断絶
ジェシーはトラブルで、もともとの「エミリー」の家までたどり着いてしまう。
そこにはもうエミリーは住んでいない。
だが、面影はある。
エミリーはいないが、エミリーの家の構造は変わっていない。
自分が長い間いたベッドの下、天井のシミ、思い出の木。
懐かしいような、思い出したくないような思い出がそこにはいっぱいだ。
そんな家に住む子供は、どこかボニーと似たような女の子だ。
想像力豊かでおもちゃと遊ぶことも好きだが、
同時にタブレットやパソコンも使いこなしている。
そんな彼女のことを見てジェシーは希望を見出す。
彼女がボニーと友達になれば、
おもちゃでまた遊んでくれるかもしれない。
だが、当のボニーはタブレットでできた友達に
「おもちゃ」で遊ぶことをいじられてしまっている。
デジタルだからこそ、より発生しやすい「分断」だ。
おもちゃで遊ぶのは子供。
おもちゃで遊ぶことは古い。
デジタルな子供たちにとっては、それが当たり前だ。
ボニーがそこに「なじむ」ためには、
おもちゃを捨てなければならない。
ジェシーはまたボニーに捨てられてしまう。
誰が悪いというわけではない。
流行り廃りはあり、
何年かたったらジェシーが捨てられることもあったかもしれない。
だが、あまりにも早すぎる別れ、
デジタルの来訪による別れにジェシーは絶望してしまう。
存在価値
ジェシーは自身のアイデンティティを喪失してしまう。
子供と遊ぶことがおもちゃの存在意義だ。
それを貫こうとエミリーと遊び、アンディと遊び、ボニーと遊んできた。
それなのに、また捨てられてしまう。
もしかしたら自分のせいかもしれない。
自分に魅力がないから、自分が面白くないから、何度も捨てられる。
そんなジェシーの葛藤に涙腺を刺激されてしまう。
私たちもまた子供から大人になる中で、
多くのおもちゃと遊び、そして捨ててきた。
それは決して面白くないから、そのおもちゃに魅力がないからではない。
だが、それでもおもちゃにとってはアイデンティティが揺らぐ出来事だ。
揺らいだ存在意義、アイデンティティの喪失。
これはまさにトイストーリーそのものだ。
そこからどう「自己確立」に至るのか。
思い出
ジェシーが最初の持ち主である「エミリー」と別れて、
少なくとも20年以上の月日はたっているだろう。
エミリーの家には、もうエミリーは当然いない。
アンディも出てくることはない。
だが「思い出」がそこにはある。
かつてジェシーが過ごした場所には、
彼女の知らない「エミリー」のその後が残されている。
そこには、エミリーの中にジェシーとの日々が
確かに残り続けていたことが分かる証がある。
ジェシーはただ忘れられたわけではなかった。
捨てられたおもちゃとして終わったわけでもなかった。
エミリーの人生の中に、
ジェシーと過ごした時間は確かに刻まれていた。
これは彼女の揺るがない存在意義の確立だ。
確かにおもちゃは捨てられて、忘れられることもある。
だが、子供たちの思い出の1ページに残ることができる。
遊んでもらえること、捨てないでいてもらえることだけが
存在意義ではない。
誰かの思い出に残ることも「おもちゃ」の存在意義だ。
今までのトイストーリーで描いてきた
「おもちゃ」たちのアイデンティティが、
30年の月日がたったからこそ変化し、新たなものになる。
時代が変わっても、私たちがいくら年を取っても、
もう子供のころに遊んだおもちゃはそばにいなくても、
「思い出」にはずっと残り続ける。
それがおもちゃにとっての最大のアイデンティティだ。
私たちの思い出
そんなメッセージを感じながら、ラストでは大盛り上がりな展開だ。
この作品のテーマである「思い出」を強烈に刺激してくる。
今作ではウッディとバズももちろん出てくる。
しかし、出番という意味では少ない。
今作の主人公はジェシーであり、それもまた時代の変化なのだろう。
だが、ウッディとバズは私たちの「思い出」の中にいる。
その思い出の中のウッディとバズはいつも口喧嘩をしていた。
あの懐かしい喧嘩を「5」では見せてくれる。
ジェシーたちのピンチに駆けつけ、
久しぶりに姿を見せたウッディは、
私たちと同じように年月を重ねた姿になっている。
バズにしても、今や「ハイテク版」のバズライトイヤーが
発売されている始末だ。
私たちと同じように二人とも年を取っている。
だが、それでも二人は変わらない。
相変わらずの言い合い、そして「二人で空を飛ぶ」姿と、
あのセリフが私たちの思い出を刺激してくる。
あえてセルフオマージュしたのは、
今作のテーマに合わせてのことだろう。
当初はウッディを登場させる予定はなかったようだが、
それも納得なストーリー構成ではある。
それでも、彼らを登場させたのは「私たちの思い出」の中にある
ウッディやバズを思い起こさせるためだ。
子供だった私たちがトイストーリーを見て、
トイストーリーのおもちゃで遊んだ、あの時の記憶。
そんな記憶を強烈に呼び起こさせてくれる。
アナログとデジタルの共生
タブレットやハイテクなおもちゃたちは、
確かに子供たちを夢中にさせ、
アナログなおもちゃから離れるきっかけ、
早い心の成長につながることもある。
だが、タブレットやハイテクなおもちゃも、
アナログなおもちゃたちと変わらない。
古くなれば捨てられることもある。
子供が大人になれば使わなくなるものもある。
その「期限」はアナログなおもちゃよりも短い。
新しいタブレットが出れば古いタブレットは不要になる。
ハイテクなおもちゃは「ハマりやすい」一方で飽きられやすい。
アナログなおもちゃも、ハイテクなおもちゃやタブレットも
大きくは変わらない。
だが、ハイテクなおもちゃにはアナログなおもちゃとの最大の違いがある。
それは「インターネット」というつながりだ。
たとえ近所の子供たちと仲良くなれなくても、
インターネットがあれば遠く離れたところの友達とも出会い、
仲良くなれる。
ハイテクなタブレットやおもちゃも「使い方」1つだ。
終盤、ハイテク版バズライトイヤーたちが思わぬ形で集う(笑)
ハイテクになったバズライトイヤーの新機能をぜひ、
劇場でご覧いただきたい。
トイストーリー1から見てきた人たちならきっと、
ハイテク版バズライトイヤーの新機能に度肝を抜かれるはずだ(笑)
総評:あなたの思い出にウッディは居ますか?
全体的に見て素晴らしい作品だ。
あえてジェシーを主人公にし、彼女の過去のエピソードとうまく絡めて
ハイテクとアナログというものを描いており、
序盤から中盤はハイテクを否定しつつも、
終盤はハイテクを受け入れている。
その変化は私たちにもつながっている。
おもちゃで遊ばなくなり、インターネットが出てきて、
スマホが出てきて、今はAI全盛期だ。
そんなデジタルにどんどん飲み込まれながらも
必死に食らいついているのが、
トイストーリー1のころ子供だった私たちの世代だろう。
そんな私たちにあえて「おもちゃ」の存在意義をたたきつけてくる。
もはやおもちゃで遊ばなくなった私たち。
そんな私たちに「おもちゃ」のアイデンティティの変化を
強烈にたたきつけてくるストーリーには、
思わず涙腺を刺激されてしまった。
もうエミリーも、アンディもいない。
私たちのそばにも子供のころに遊んだウッディやバズの人形はもうない。
だが、おもちゃで遊んだ「思い出」は残り続けている。
そんな思い出に寄り添うようなストーリーには、
思わず感動してしまう。
時間が経過すれば多くのものが変化していく。
「変わってしまうもの」のほうが多いくらいだ。
だが、そんな中で唯一変わらない「記憶」というものに
ジェシーがアイデンティティを見出す展開は本当に素晴らしかった。
ストーリーだけでなく、映像のクオリティも素晴らしく、
特にハイテクなバズたちの描写は笑いつつも、
CGのクオリティに度肝を抜かれてしまうほどだ。
どちらかといえば今の子供たちだけに向けたものではなく、
あの頃トイストーリーを見ていた私たちに向けた物語にもなっており、
コミカルな表現は多くありつつも、
大人向けな、今の、30年たったからこそのトイストーリーだった。
個人的な感想:私
個人的にトイストーリー4があまり好ましくない作品だったため、
5も警戒していたのだが、そんな警戒が杞憂に終わった作品だった。
個人的な話になるが、トイストーリー1と2のころは子供で、
3のときは家族で劇場で見て大号泣し、4は配信で見て、
5になった今、私は結婚し、小さな子供もいる。
そんな子供がいるからこそ「デジタル問題」に関しては悩みの種でもあり、
そのあたりがどう描かれるのかが興味深い作品だった。
どこか否定はしつつも、完全にダメなもの「敵」とは描かず、
最後は共生という感じで終わっている展開もトイストーリーらしく、
アナログ世代とデジタル世代のはざまで生きる私たちの世代の
感覚に近いのではないだろうか。
ジェシーのエピソードをここまで深掘りしてくることは予想外で、
映画を見ている最中に、もしかしたら「アンディ」や「エミリー」が
出てくるのでは?と一瞬考えてしまうほどだった。
その答えの出し方が本当に素晴らしい。
変化を受け入れて、変化する時代や環境に合わせて
自分の存在意義を見出す。
それがトイストーリーであり、それが人としての生き方の1つでもある。
おもちゃたちのアイデンティティの話であると同時に、
私たちのアイデンティティの物語にもなっている。
そう考えるとトイストーリー4ももう1度見直すと、
違った感覚が生まれてくるかもしれないと
思わせてくれる作品だった。



